夢への扉

その21「小さなLEADERS」編

今月は、ドラマ「LEADERS」についてのお話です。ドラマの紹介とともに、ソミック石川の歴史も交えてお話しします。
 
「LEADERS」
豊田自動織機からトヨタ自動車の設立、発展の時代を、豊田喜一郎を主人公として作られました。時代は、戦前・戦中・戦後と最も激しく揺れ動いていた時であり、トヨタ自動車では労働争議による解雇も行われました。ドラマの細かい説明はできませんが、3つのキーワードで紹介したいと思います。(ドラマでは、愛知自動車工業・愛知佐一郎)
 
夢と情熱
「日本人の手で国産乗用車をつくる」
豊田喜一郎はアメリカから帰り、日本人の手で乗用車をつくる夢に自分の人生そのものをかけました。その夢、情熱こそが、クルマをつくり、人を育てたと思います。
 
社員は家族だ!
トヨタ自動車にて労働争議が勃発し、豊田喜一郎はやむなく社員の解雇を行うとともに、責任を取り社長を辞任しました。喜一郎の思いは「社員は家族だ!」の一言にあります。
 
LEADERS
喜一郎の夢と情熱が、仲間、家族に伝わり、LEADERSが生まれます。エンジンブロックを作り続ける工場長、命を賭けてまで資金繰りをする経理担当、戦争で命を落とす者、そこにいるみんながLEADERSです。
 
このドラマを見ながら自分は、ソミック石川(石川鉄工)のことを考えていました。ソミックは1916年に創業し、織機の部品から自動車の部品をつくります。トヨタ自動車と同様にソミックも、戦前、戦中、戦後と幾多の時代を潜り抜け、今があります。そして、そこには何人ものLEADERSがいました。ソミックの歴史を簡単に振り返ります。
題して…
「小さなLEADERS
 
初代 石川 菊三郎(1916~1931)
創業者の石川菊三郎は、名古屋から鍛冶屋の修行に浜松に来ました。福乃と結婚した後、夫婦二人で鍛冶屋を起こしました。福乃がフイゴを吹きながら、菊三郎が鍛造、加工を行い織機のボルトを作ります。菊三郎は石川鉄工を「浜松のねじの草分け」と言われるまでに育て上げ、遠州製作所、鈴木自動織機、豊田自動織機へもボルトを納めることになりました。そして、この取引が、豊田喜一郎のクルマづくりへのお手伝いにつながります。
 
2代目 石川 馨(1931~1942)
菊三郎が若くして他界した後、長男である石川馨が社長を継ぎました。馨は織機のボルトと共にトヨタ自動車のエンジン用のボルトも造り出します。しかしながら、召集令状が届き、フィリピンにて亡くなりました。若くして命を落とした馨の話は、あまり多くありませんが、出征の時、「会社を頼む」と書いた手紙を汽車の窓から手渡したそうです。昭和20年、浜松では空襲により32名の仲間が命を落としました。
 
3代目 石川 薫明(1942~1968)
馨が他界し、馨の弟、石川薫明が社長を継ぎました。戦争で浜松は焼け野原となりましたが、トヨタ自動車がトラックで設備を上愛宕へ移動してくれたため、戦後すぐにボルトを作ることができたそうです。また、トヨタ自動車が労働争議の時、部品代がもらえない中でも、織機で稼いだ金で食いつなぎ、薫明自身は金策に銀行を走り回っていました。この労働争議の後、トヨタ自動車からボールジョイントを勧められ、自動車へと軸足を大きく移します。その頃の石川薫明は、いつも現場に顔を出していました。残業が続く時には、ラーメンの屋台を会社の中に入れ、食事をとらせ、休みの日も弁当を一緒に食べていたそうです。鍛造・熱処理には特に力を入れ「熱処理なくして石川鉄工はない」と自ら陣頭指揮をとっていたそうです。
 
 
このようにソミック石川の歴史も、「LEADERS」のドラマと同じ時を経ていました。
★ 夫婦2人の鍛冶屋から織機のボルトを作り、ソミックの礎をつくった石川菊三郎。
★ 鍛冶屋を継ぎながらも、志半ばにして戦争という時代に散った石川 馨。
★ トヨタ自動車に恩義を感じながら、ボールジョイントに夢を託し、現場と共にあった石川薫明。
いずれも、浜松というやらまいかの町で、情熱を持ち続け、家族という仲間たちと共に生きていたのだと思います。
今もソミック石川(石川鉄工)で働く人たちが、それぞれの歴史を持ち、その誰もが「小さなLEADERS」であるのだと思います。